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くにとみ
三箇名地名と
荘園時代

三箇名(さんがみょう)地名と荘園時代
 平安の頃天喜五、年(1057年)、宇佐神宮の日向の所有田を記録した「宇佐大鏡」によれば、三箇名は宇佐宮から派遣された収納使の名田(所有者の名で呼ばれた田)で、収納役人の給料分として宛行(あてがわ)れた土地のことで、伊蔵(いざお)、冨松(とみまつ)、衾田(ふすまだ)を三箇名というとある。
 天正十五年(1587年)豊臣秀吉九州西征後の日向国割(大名への領地配分)では、この三地区は島津領であったが、高鍋秋月藩の飛地領志布志は島津にとって東への出入口、しかも良港・豊富な漁場をひかえ、山から錫(すず)を産出していた島津にしては是が非でも領土としたい。秋月、島津藩は歴史的に友好の藩島津はこの代償として、吉野、金崎(かねざき)、堤内(つつみうち)、嵐田、宮王丸、岩知野、木脇、三箇名、伊左生の各村を交換領土とし、この交渉はいともスムースに成就した。
 荘園時代、宇佐神宮領は九州の殆(ほと)んど全域に及んで、総面積一万町歩といわれた。
 東諸地方では天喜五年諸県荘百七十六町が開発され、それから百四十五年後の建久八年(1198年)、源頼朝が全国統一して田地調査を記録した建久図田帳には四百五十町と、約二・六倍の膨張である。
 これに記録される東諸県郡内荘園は諸県荘四百五十町、衾田別府三十町、伊左生別府三十町、穆佐院三百町の四荘である。現在の郡内と当時の状態において考えると、現在高岡町の穆佐院のほか、伊左生を除く旧八代村、旧本庄町と綾町の全域ということになる。
 旧木脇村は当時瓜生野郷で瓜生野別府百町の一部とみてよい。綾の記録は全くないが、本庄川流域とその上流の綾川の二川一帯は、古来農耕の最適地であった筈(はず)で、諸県庄四百五十町というのは、大化改新後の国郡制時代の県田郷(あがたごう)(本庄地方)、八代郷に亜椰(あや)を含めた地域にちがいない。

町広報紙連載 柄本 章氏「国富の歴史」より


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