legend of Shikibu
くにとみ
式部伝説

伝説の坂道
 『三国名勝図絵』の和泉式部法華嶽参籠(さんろう)に由来する坂道が旧八代村今平にある。式部が六野原から今平へおりた坂道を「車返し坂」といい、ここをおりると阿弥陀堂がある。図絵には式部が休息して車を返した所ともある。この坂道は、地区の伝説では「籠おり坂」ともいう。昔からこの坂道で馬から落ちたり、歩行者がつまづき倒れると必ず重い病気にかかるといって、別に「駒らじ坂」とも言い伝えている。
 ここから、三名川を渡って一、二キロ。川上原の東端八代城の南側の登り口あたりを「取添の坂」といい、式部に杖を与えた所と伝えている。ここを登りつめた集落に「取添え」の地名が残っている。
 寛政四年(1792年)六月、高山彦九郎が肥後から米良を経て法華嶽への道中日記に、『都於郡町より一里(約四キロ)坤(ひつじさる)(南西)の方へ来て六野の茶屋ここは高鍋領なり。人家を出て右細道へ入る。坤の方高い丘の見ゆる三里あたりに法華嶽見ゆ。平たい畑を歩くこと一里ばかり。
 ここをおりると今平光孝寺という禅寺あり門前(もんぜ)という。川を渡って坂を登る八代の馬場といって道広し、これより法華嶽まで一里半永田の川を渡り歩き続けて市の瀬へ是より二十町(約二キロ)法華嶽なり。』
 島津義弘公関ヶ原敗戦の帰路、わずかの供と八代を発ち、一丁田、仮屋原、八幡を経て嵐の宮の川を渡り岩坂へ。お供の先駆け武将は久保町の黒木三郎方へ一宿して、そのお礼をし証しとして武具一つを置いて発った。というゆかりの言い伝えがある。この通過路は砂土原方面から八代、本庄への一幹線で、久保町弁天宮から西へ表新町と十日町旧道から八代街道への横馬場通りが合流する辺りが、江戸時代からのメインストリートで、かって盛んであった十日町市はこの三叉路辺りが最も賑わった。

郷土街道と歴史
 平安時代後期の九九八年ごろ、京都で天然痘がはやり、多くの死者が出た。
 和泉式部が、「式部日記」を完成したのが寛弘元年(1004年)とあるので、式部の発病はこれより後と考えられる。
 越後の米山薬師、三河の鳳来(ほうらい)寺を参ったあと、日向の法華嶽へ向かったのだが、式部は、一体どういった道をたどったのだろうか。おそらく舟便で細島か高鍋へ着いた後、当時の官道を国府西都へ向かい、ここから都於郡(とのこおり)を経て六野原へ。さらに西へ進み、今平の「籠(かご)おり坂」を下ったものだろう。そして、門前の川を渡り、同地区に伝わる「取添えの坂」を登って八代馬場へ。そこから永田へ下り、高田原台地を越え、愛染川を渡って目的の法華嶽薬師寺へたどり着いたものと考えられる。
 これは、偶然にも、寛政時代に法華嶽を訪れた、尊皇家・高山彦九郎の「日向歴遊」の記録と一致する。
 彦九郎は、法華嶽から須志田へ下り、飯盛を経て十日町へ出ている。
 彦九郎日記の中に「十日町、家百軒余。五、六丁(550〜650メートル)東に六日町あり。大街道なり」と、当時の様子を紹介してる。しかし、天領のためか、宿に泊まることは避けたようだ。
 その後、彦九郎は嵐田へ抜け、高岡を通り、去川の関所を避けて舟便で宮崎へ入る。
 この時代から二十年後、伊能忠敬一行が地図作成のため、日向にも来ているが、そのとき、六日町の庄屋・岩切彦兵衛宅を宿とし、一泊したのち、六野原から佐土原へ向かっている。

町広報紙連載 柄本 章氏「国富の歴史」より


Prev.