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くにとみ
筆塚

五雲筆塚
筆塚  五雲高妻秀遠は文政三年(1820年)六日町医師秀庸(ひでつね)の二男に生まれ、幼い頃から学問を好み近くの医師町田道本に漢書を学んだ。天保十一年(1840年)二十才で日田の咸宣園(かんぎえん)に入門以来、一躍塾の高弟となって塾生の指導に当たった。
 しかし、彼はなお青雲の志やみ難く、大阪の篠崎小竹(しょうちく)の塾に入門して、さらに研鑚の道に励んだ。
 のちに、江戸へ出て頼山陽の高弟石川藤蔭(とういん)と意気投合して学問を重ね、その間国学者平田篤胤(あつたね)や同郷の秋月橘門(きっもん)の学友の協力もあって、江戸に塾を開いて激動時代の青少年教育につとめた。
 安政二年三十五才の時、信州の学者東條琴台(きんたい)と親交があり、請われて柏原にとどまって生徒を教授した。
 秀遠は、故郷を出て学問修行を究め、二十年後本庄へ帰り兄騰雲をたすけて塾を開き、兄の塾を会友園(ゆうえん)といい、その上級を五雲の稽衆園(げいしゅうえん)といった。
 会友園を修行したものは、競って稽衆園に学び、その教えをうける者は、近在はもとより遠く他郷からもおとづれ、兄弟の教化をうけた者は一千余人に及んだというから、その隆盛もさることながら、当時この地方では稀に見る教育の殿堂で、明治維新を迎え進んだ教育は、この二塾によって普及奨励されたところが大きい。

筆塚 田辺輝美(時の県令)
先生 秀遠高妻氏処(せんせいひでとうこうづましとしょうす)
人博識多才 最妙揮毫(ひととなりはくしき もっともきごうにみよう)
門人  恐其名煙減(もんじんそれぞれそのなのしょうめつをおそれ)
欲建碑存無窮 請余銘余不敢(ひをたていつまでもそのなののこることをほっしょにこうてこれをめいせしむ)
辞銘日(よあえてじせずめいしていわく)
学空古今書亜顔柳(がいくここんにくうにしてしょはがんりゅうにつぐ)
先生之名興石不朽(せんせいのないしとともにくちず)
杉田東作 題
三輪晴海 書
 明治十七年門人たちは、碑を邸地に建て永くその高徳を伝えた。

町広報紙連載 柄本 章氏「国富の歴史」より


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