legend of Kaminagahime
くにとみ
髪長媛伝説

国富の古代
 古代、景行天皇の大和朝に従わぬ熊襲征伐に、日向国高屋(都於郡)を拠点に留まること六年、ある時、共人を連れ丹裳(にも)の小野(西都方面)にお出になり、高台から東の方を眺め「この国は直ちに日のさす国である。これより日迎(ひむか)の国と呼ぼう」と仰せられた。また、「この地の豪族の娘御刀姫(みはかしひめ)を娶って豊国別(とよくにわけ)皇子を産む」と『記紀(きき)』にある。豊国別の名は、九州が四ヶ国時代に豊国から別れた日向国を治める者ということである。
 日向国造(くにつこ)(長官)は、豊国別が始まりで、国富彦・老男と三代にわたる。その治所は、現在の西都辺りとみるのが自然で、ちなみにここが大宝律令後の日向国府である。老男の子牛諸井は諸県君を命ぜられて国富へ移る。
 当時の日向国は児湯県(あがた)と諸県の皇室領で、北は豊国、西南は玖摩(くま)国と曽於(そお)郡すなわち熊襲国である。日向は大和朝が多年統治に苦心した隼人勢力に接触する辺境の地であった。
 老男は、応神天皇より日向国造に任ぜられ、牛諸井の娘髪長媛(かみながひめ)が仁徳天皇妃に入内(じゅだい)したことは、老男、牛諸井は応神天皇から大事な舅筋になる。また、牛諸井の婦人となる大原稚郎女命(おおはらわかいらつめのみこと)は皇神天皇皇女で天皇が諸井の舅となる。この重なる皇縁と、国造・諸県君を賜(たまわ)ったことが、大和とほとんど同時期に高塚古墳築造権が与えられたとみるのが妥当だろう。
 この結果として、日向国造系の西都原古墳、諸県君家の本庄古墳群、これとは別系統かもしれないが、全国一を誇る宮崎平野古墳群築造が行われたと考えられる。いずれにしても、宮崎平野古墳群は髪長媛と関連していることは確かで、河内王朝と諸県君家との縁を通じて天皇家の息がかかり、老男の存命中に築造は許されたとみてよい。
 日向国造始祖の豊国別命・老男・諸県君牛諸井は、剣柄稲荷の傍(かたわ)らの相殿社へ祭られている。

国富の古代(2)
 南九州の熊襲(くまそ)、隼人(はやと)と呼ばれた人達は、古代の彼らの存在を自らの手で残し伝えている。
 その代表的なものに、「地下式横穴墓」と呼ばれる南九州独特の古墳がある。五世紀前半に始まり、後半には大隅半島に広がっている。六世紀以後大和朝廷へ服従後は、家族墓として営まれた。そこには、熊襲隼人国として伝統的な生活文化を共有し続けた団結強い部族集団の跡がみられる。その北限は、新富町から六野、西都、九州山地をまたいで、熊本の人吉、八代をつなぐ線だといわれる。
 文政六年(1832年)の冬、六日町川越栄治の祖・弥右ヱ門という者、仲町の猪の塚の南側にカライモを蓄える穴を掘ろうとして土崩れで中に落ち、人骨、太刀、鉄甲(てつかぶと)、八稜(やかど)の鏡を発見した(国富郷土史)。これは塚の一部からの出土で、塚を利用して地下式墓を掘ったのか、地下式墓の上に猪の塚が築造されたのかのいずれかだろう。
 この地下式墓には、埋葬者の勢力も示す装身具は少ない。出土物は、鉄製の甲冑(かっちゅう)、刀剣、槍先、鉄鏃(やじり)、馬具などの武具が圧倒的に多い。この隼人墓は鹿児島県下に多い集団墓や一つの墓に数体の家族墓も見られるので、熊襲、隼人の社会は、階級の分化は進んでいない団結の強い原始共同社会であったことをうかがわせる。何より、おびただしい武器の副葬品は、大和からの征服者に対して、熊襲、隼人がいかに頑強に抵抗したかの証(あかし)である。
 ちなみに、町内各古墳からの出土品の一部をあげると、剣の塚(鏡、剣、玉、鎧(よろい)、矛(ほこ))、松原塚(馬具、鉄鏃、曲玉(まがりたま))、京塚(直刀、槍先、鉄甲)、本庄小学校庭(直刀、鏃)、六野、八代古墳群(鏡、鉄、太刀、鎧、冑、三又鉾、短甲)である。古代墳ほど武具や馬具が多く、六、七世紀の古墳終期になると装飾品が多い。

髪長媛
 古代、諸県君家(もろかたのきみけ)の支配地は、今の東・西・北諸、南那珂、日南、串間さらには鹿児島県曽於郡にまで及ぶ広大な領域で、その統治の中心が国富でした。
 当時、この地を統治していた牛諸井は国富彦の孫で、朝廷に長く仕えたが娘の髪長媛は美人の誉れ高く、その噂は時の応神天皇の耳にまで入って、ぜひ天皇妃にほしいと申し出があった。
 その年の秋、天皇は供を連れ淡路島に狩りをされ、西を望むと数人の鹿皮を着けた手こぎの舟が播磨(はりま)の水門(みなと)に入った。不思議に思って使いの者に調べさせると、それは、本庄から一月の舟旅でやっとたどり着いた牛諸井髪長媛一行であった。天皇は、大変喜び召船(めしふね)に引かせた。その後、この港を鹿子(かご)の港というようになった。
 天皇は、媛を大和に近い桑津邑(くわつむら)に住まわせたが、皇子の大ささぎ尊(後の仁徳天皇)は、媛の美しさに恋慕され、想い悩まれるようになった。この事を臣下から知らされた天皇は、ある日宮廷に宴席を設けて媛をよび、皇子を媛に引き合わせた。媛はめでたく仁徳天皇妃として、終生故郷の国富に帰られることはなかった。
 二人の間に、大草香皇子と幡日(はたび)皇女が生まれ、幡日皇女は、後に二十一代雄略天皇妃となられたことで、諸県君家と皇室は母子(おやこ)二代の深い親戚の間柄となった。

町広報紙連載 柄本 章氏「国富の歴史」より


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