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くにとみ
勘場

渕脇勘場
 「勘場」という地名は、地名そのものが土地の歴史を物語っている。
 江戸時代初期、天領本庄三千石時代から天領であるがゆえに人と物の出入の自由という地の利を生かして、本庄の交易商人は上方市場と互角の取り引きができるまでに成長し、郷土の産業経済に驚異的な発展をもたらせた、これは、けだし帆船輸送にあずかるところが大きい。
 和泉屋の千石船鵜徳丸から、赤江港で帆かけ舟に積替え、本庄川を上る帆舟は、当時まだ一寒村にすぎなかった宮崎を素通りして、物と精神文化の直輸入をみたのである。
 その発着所の勘定場は人や物の出入りしげく、出舟、入り舟、泊まり舟がひしめき、白帆に朝日・夕日が映えて、漕ぎ出すさまは素晴らしい景観であった。事務所や倉庫、茶店、日用品店を兼ねた旅籠が軒を益べ、終日賑わいをみせた。  市で賑わった十日町や六日町への通路は、馬や大八車のきしむ音が絶えなかっただろう。
 勘定場をいつの間にか簡略化して、土地の人達は「勘場」と呼ぶ。同じ本庄川下流およそ一キロに、当時土地の産物を積み出していた「渕脇勘場」と呼んだ。町内の深年川筋の三名屋敷下流にも、かつてその跡を語る「勘場」の地名が残っている。
 当時、他郷に先駆けて市の発展、ひいては学問校芸の興隆へ広がりをみ、郷土ははかりしれない進歩をみた。その原点が勘場といえよう。

運搬の様子
 昔の道路はせまく、しかも急な坂が多かったので、木材や穀類など重くて荷のかさばる物の運搬は、船に頼っていた。
 今の本庄橋がかかっているあたりは、その昔「勘場の渡し」があり、ここからいろいろな物産を川船で積み出し、赤江港で帆船に積みかえて今の京阪神方面へ運んでいた。ここで米俵を船へ積みこむ威勢のよい姿を振り付けたのが、六日町の俵踊りである。
 和泉屋、桝屋などの豪商たちが上方あたりと商いをしたころは、本庄橋付近は「ふきわき勘場」と呼ばれていた。綾の奥の山地から人や牛馬によって運び出された木材や木炭が、農産物と一緒にここから船で運ばれていたのである。郷土の産物を積んだ船は、行きは流れと櫓(ろ)の力で下り、帰りは頼まれた軽い荷物だけを積み、帆を上げ風力を利用して川を上っていた。そのため、一往復するのに二日を要した。
 夏など、白い帆に風をうけて船が上ってくると泳ぎに来ている子供たちが船のへりにしがみつき、それを船頭が大声を張り上げてどなりつけているーそんな光景がいつも見かけられたことだろう。

川の交通
 昭和初期、本庄小三年生の春の遠足は、法華嶽であった。
 展望台からはるか30キロメートル余りの遠望、一ツ葉浜に白帆の浮かんだ光景は、海を知らない子供にとお手は驚きで、七十年もの昔のことでありながら、忘れ得ない感銘の思い出である。さすがに、かつては日向八景の一つに数えられた名勝である。
 この帆かけ舟も大正末期頃までは、綾や本庄から宮崎までを往復した。綾や本庄から山産物や穀物、野菜、和紙などを満載して、午前の山風を利用して宮崎へ下り、帰り舟には呉服や雑貨、乾物類を積んで午後の海風に帆を張って、産物交流の便利屋の役目を果たして本庄川を遡(さかのぼ)った。
 本庄川や高岡川の最大の発着地は、赤江港を支配した宮崎の町で一番初めに発展した城ヶ崎町で、「赤江ン城ヶ崎きゃ撞木の町よ。金がなければ通られぬ」と囃された。しかし今は、川の流れの風景とも町並みにも昔を知るよすがもない。
 船の発着所はどこでも、他に先駆けて発展したのは城ヶ崎だけでなく、綾の元町や揚町もその町名が示しているし、本庄勘場も舟荷の積み下ろしの勘定場で、昭和初期頃までは橋から北へ100メートルくらいの町並みが続いていた。
 川の上流には、ダムや流れに添う堤防もなく、川も深く舟の運航には都合がよかったが、時代は渡し場に橋がかかり、年を追って人や馬の背に頼った陸の運送に道路も整い、舟からに馬車やトラックに変わり、舟は長い役目を終わっていった。かつて川に賑(にぎ)わいを見せた渡し場を、本庄川に例をとってみると、森永渡しや竹田、田尻、嵐田、榎瀬、吉野が記録に残っている。
 渡し賃は、どこもそこの地区民は無料。明治期の記録では、大人四厘、天秤で荷物を持った人六厘、荷車六厘、牛馬一銭。この渡し賃も川が増水すると、一尺(約三十センチメートル)増すごとに渡し賃は倍加した。九尺以上増水したら川止めであった。
 明治二十二年町村制改正のとき、嵐田や田尻の地区民が高岡村との合併を希望した理由は、嵐田渡しが交通の難所であるばかりでなく、人の労力や経済上のこともあり、高岡は陸続きの便があった。
 ちなみに、本庄橋最初の架橋は大正十五年、当時宮崎行き街道で最も必要度の高かった太田原橋は明治三十年架橋である。

町広報紙連載 柄本 章氏「国富の歴史」より


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