Developed irrigation water
くにとみ
南水流水路開渠

南水流用水路開渠
碑
 犬熊御才薗の高台突端に、自然石に刻まれた「本庄村水路開渠記念碑」が建っている。
 篆額(てんがく)は北白川宮能久親王。撰文(せんぶん)は秋月種樹(たつ)公。側面に儒者高妻五雲(ごうん)の書が刻まれている。
 この苦難の大工事の由来をたずねてみれば、幾多の困難辛苦をなめてなお屈せず一身一家を犠牲にし、ついにこれを完成した義人達の美しい物語が伝えられている。

 「三郎どん、お前まだ汲んでいるのか」闇の中から物憂(ものう)そうな声がする。「ああ」とこれも力のない返事。撥釣瓶の音がかすかに聞こえる。「駄目だ八百治どん。もう野井戸の水も枯れたそうな、あとは泥ばかりだ」
 安政六年(1859年)は六月から八月にかけて大干ばつであった。與三郎は当時わずかに十八才であったあが、枯死寸前の稲田に井戸水を汲みながら思うに、川上から水を引けばどんな干ばつにも苦労なしに豊かな水田が見られ、農民はどんなに喜ぶだろう。とその後洪水の際、各所を走って土地の高低や川の流れを調べ、水路開通の志をいよいよ固く抱いた。
 明治六年(1873年)に宮崎県がはじめて設置され、県の係官藁谷英孝(わらがやひでたか)が本庄へ来て村民大会が開かれ、その席上、英孝は「今日県下において公利を興す事業にどんな事があるだろうか」とたずねた。高妻五雲は膝を乗り出して「本庄村は土地高く灌漑にすこぶる不便です。農夫達は一たび干天にさらさるれば野井戸に頼る外なく、昼は炎暑、夜は蚊に襲われ、露にぬれ病におかされ始末です。この上流の森永より溝を引けば水勢は盛んで宮崎までもわけなく達します。この水路ができますなら、公を益すること計りしれないものがあります」と熱意をこめて答えた。
 英孝はこれを聞いて大いに喜び、県庁へ帰ってすぐ報告したので、県は係官を派遣して詳しく調査させ、水路の工程や費用を決定した。
 ところが間もなく明治九年(1876年)に、宮崎県が鹿児島県へ合併されるという思いもよらぬ出来ごとに、せっかくの水路大計画も実現不能に陥ってしまいました。

南水流用水路開渠(2)
 明治九年、宮崎県は鹿児島県へ合併の悲運にあい、南水路開鑿(かいさく)の機運も一頓挫(とんざ)をやむなくしたが、明治十三年一月二日、水路事業の大志を抱く人々百余人が六日町井上亀太郎料理店に会合した際、頻(しき)りと南本庄田畑の灌漑の不便を語るを聞いて、亀太郎は感動し大雨のあった翌朝、本庄川の水量や水路の測量を試しみ、その成就(じょうじゅ)に自信を得て、與三郎と共にいよいよその設計に従事した。
 しかし、時移れば人の心も変わるが自然で、初め同意の者も次第に離れて残る者はわずかに八人。井上亀太郎、宮永八百治、岩切為助、巣山徳次、吉野庄三郎、長友精次郎、巣山與三郎、岩切栄之助の八氏である。ここに同志額(ひたい)を寄せ合い兄弟の契りを結び、おのおのが私財を投じて他は負債をもっても素志を貫くと、奮然と契約を交わした。
 一同はある日、儒者高妻秀遠を訪ね「私どもはもとより微々たる畑民でありますが、共同一心して水路開鑿の事を起こそうとしています。ここに願状を裁いてくださるようお願いします」と決意を示して乞うた。秀遠は「容易にこの大事業を成し遂げることは難しい、しかし事を起こして中止は許されぬ」なかなか承諾はされなかった。八人は心を一つにいかなる困難辛苦にも耐え、不撓不屈(ふとうふくつ)の志をもって貫徹する誓いを約した決意を述べて、強いて裁状を乞うた。
 先生への嘆願も四回を重ね漸(ようや)く承諾され、水路開鑿設計や概費拝借等の書類を整え、明治十三年七月郡役所へ提出した。郡長は副申書を添えて鹿児島県へお願いした。戸長岩切直七、発起人の井上亀太郎、宮永八百治の三人は県へ出頭したが、県の達(たっ)しは厳しく、「費用拝借のことは聞き届け難い」とすげなく断られた。しかし、一縷(いちる)の望みは「水路用材の名義で願えば官木払い下げにはまだ望みがある」とのことで、八人は去川、紙屋、高城、小林、志布志、福島村へ遠い道のりを調べ歩いた結果、福島村(現在の串間市)の杉木三万六千本を探し願い出た。
 県からの返事がないので、あけて十四年一月に督促の願いに、県技手石塚英二等が来て言うに「これは予想以上に大難事である。君らのわずかな力ではこの事業の完遂は思いもよらぬ」という残酷な言葉に、八百治は思わず進み出て「我等がこの大願をやりますのは、もとより生死を越えてのことであります」と、憤然として左手小指を切断して覚悟のほどを示した。
 この指の指塚が、今も記念碑の傍(かたわ)らに苔むしてひっそりと建っている。

南水流用水路開渠(3)
 宮永八百治の指を断(た)っての異常な表情に石塚技手もはじめは発狂したのではと思ったが、次第にその決意と熱涙にむせびながら述べる一言一句に、技手も大いに感動し「君達にそれだけの決心があるなら成功するだろう」と帰県して詳さに実状を復命した。
 八人の誠意は県を動かし実施調査のうえ計画案も完了。明治十三年十一月末渡辺県令が来村巡視して、発起人に対して「このような大事業には七、八分の成功をみて志気の崩れるものが多い、君達は初志を貫徹し成功を期せよ」と激励。一同歓喜した。  明治十四年四月十二日自費開鑿の許可をみて同二十四日待望の着工となった。
 発起人たちは勇躍して工事用材の払下げを待った。同年五月係官は福島村へ出張し官林の杉材一万八千本に刻印を打った。八人は八方苦心してこの代金四千円を借り伐採許可を待ちわびたが、八月四日「杉材払下げの儀は聞き届け難し」と冷たい返事であった。八人の驚きと失望はどんなだっただろう。
 用材なくしては工事の目的は果たせない。工事を起こして半ばに達し開墾地さえできたというに、入費も予算の半ばを費やし借金もかさんでいるのにこの達しである。再度用材払下げを願ったが許されず、一同は失望の極みに号泣した。工事半ばに八人の出資、有志者の據出金合わせて三千三百円はすでになく、借財元利は八千余円の巨額になっていた。
 八人はさらに詳しく工事の状況を述べ県からの借入を乞うた。県もこの情状を憐れんで特に九千円貸下げの恩恵をうけた。しかしこの間資金の欠乏する毎に負債を起こし、祖先伝来の地を質にし、家を売り衣類家具一切を金にかえ藁小屋を建てそこへ住み、家族は寒さと飢えに泣き、主は債主に責められる日が続いた。貸下金で幾分の負債を返し高価な用材を得、工事の継続に力を入れた。
 この間渡辺参事院議官の来村激励、農商務省岩山大書記官の来村、水路全工程を視察その称賛は政府へも達した。
 明治十五年九月工事は八割の成功を収めたが、借金の督促は日に増しきびしく八人の苦慮(くりょ)はその極みにあった。十月十八日の夜八人は岩切為助方に集まり密議の末、百計すでに尽き一同死をもって県と債主に謝(あや)まることを決意。まさに自害に及ぼうとしたとき、為助の父はこのただならぬ事態を高妻秀遠先生に告げ、師は、八人の短慮を叱り、果ては慰め、ようやく事なきを得たのだった。

水路
現在でもこんこんと流れる水路

南水流用水路開渠(4)
 高妻秀遠は恂恂(じゅんじゅん)とその不心得を諭し、「死んだ気になって努力せよ」と励ましたので、八人も翻然と悟るところがあって死を思い止まり、再び目的の水路工事に向かって奮い立った。
 秀遠は戸長の直七と相談して、宮永八百治と巣山徳次を代表に都城郡役所の郡長谷村純孝に政府貸下金一万円の借用をお願いした。幸いにこの願いは聞き入れられ、一同は狂気して手の舞い足の踏み場もない有様であったが、鹿児島県より「今回の貸下金より先に、県が貸した9千円を利子を付けて返納せよ」との冷たい催促に、一同はただ呆然とした。そうするうちに、明治16年6月に宮崎県再置がなされたのを機に、工事の窮状を訴え、田辺県令から分割払いをお願いしてもらったが、これもまたむなしく斥(しりぞ)けられた。
 八人は、この上は中央政府へ嘆願の外はないと心を決めて、十月九日朝霧に粉れて上京の途についた。思えば遙かな旅の空、生死をかけての今朝のこの角途(かどで)に、老いた父母はとぼとぼと出て、見えない眼をしばだて皺手を合わせてつつがなく上京を果たすようにと祈り、悲しみに耐えきれず追いすがる妻子の手を払い哀別の涙を笠に隠して、一同は吉野の渡しにさしかかった。
 「三郎どん。渡し守を呼ぼうか」と栄之助が言えば、「いや、夜逃げ同様のこの姿を人に見られとうない」と庄三郎。「では、浅瀬を渡ろう」と身支度をする所へ一艘の小舟。「徳次どんではないか。水路の衆がお揃いで早朝から何処へ行きなはる」、徳次は驚き「おお弥三郎どんか、面目ないが見逃してくれ」と様子有りげな一言に、渡し守の弥三郎は“はた”と思いついた。「それでは噂の通り、みんなはお上へお願いに上京しなはるか」と図星を指され、みんなは言葉もなくうなだれた。弥三郎も涙が流れ「ほんに村の為とはいえご苦労をなさる。その真意は今にきっと神にも届くだろう」「今の八人は多くの債主(金貸人)に“人でなし”と罵(ののし)られ身の置き所もない始末。この上京もみな決死の覚悟、志ならねば生きて帰れない。私どもの手向(たむ)けに弥三郎どん、三途の川の渡し守になってこの川を渡してくださらんか」、「はて、縁起でもない」と八人を乗せて川を渡った。
 「では皆さん達者でな」、「ありがとう、さようなら」と感謝の気持ちを短い言葉に込めて、一同は追わるる者のように郷里を離れていった。

南水流用水路開渠(5)
 発起人八人は、まず都城の諸県郡役所を訪ね、郷人三輪太一郎と郡長谷村純孝の両氏に会い、上京の子細を述べた。
 郡長は大いに上京の不可を説いたが、八名は今更応ぜず、鹿児島から熊本へ向かい、別府へ出て蒸気船錦小丸に便乗し十月二十一日神戸へ上陸。ちょうどこの頃、農商務大書記官岩山啓義氏巡回の途中神戸滞在を聞いて、宿舎を訪ね嘆願したが、「正当の手続きを踏まないと、願書を受ける訳にはいかぬ」と、ここでもまた大いに癒諭し帰県を勧めたが、八人は決死の覚悟の上京である。
 神戸から徒歩で東京へ向かった。翌二十四日大阪へ、二十五日京都へ到着。ある時は野宿、ある時は村の祠堂(しどう)へ。元より路金の余る旅ではない。飢えに耐え粗末な食事を分け合い道辺の湧き水に渇(かわ)きを潤(いや)し、東海道を夜を日についで歩き続けともに辛苦を分け合いながら、月も改まって十二月五日ようやく東京の土を踏んだ。時に八人の懐中には、合計二十八銭を余すのみであった。八人の窮苦はどんなであったろうか。十二月七日、かつて水路視察に来村された参事院議官渡辺昇氏をその邸に訪ね、願書の取り次ぎを乞うたが、氏もまた諭して帰県を勧めた。
碑  一方郷里にあって、戸長岩切直七氏は八人の上京を知り、政府への対応を誤っては一大事と後を追って上京し、訪ね訪ねて八人に会い、翌日ともに県御用係藁谷英孝氏を訪ねた。氏も大いに驚き、語るに「そのようにしてなお、思うようならない時はどうする」と懐中の短刀を示して「一死あるのみ」と。氏は「慌てることはない、私の力のある限り働いてみる。安心せよ」と、金子いくらかを出し桜井旅館の宿料を払わせ、なお、借家一軒の米や薪炭一切を差し出して住まわせた。同氏の懸命の働きによって、八人は兵器局の人夫となって心細い暮らしを忍びながら、なお歎願に一縷(いちる)の望みをかけて奔走した。
 たまたま上京中の宮崎・鹿児島両県令や、つてを求めて農商務大臣品川弥次郎氏や内務卿山形有朋氏、勧業議官前田一郎氏等に歎願を続けたが、いずれも得るところはなく八人は焦燥の日々を送ったが、この辛苦の積み重ねがやがて計り知れない幸運につながるのである。
 明治十年西南戦争の再、時の参軍山形有朋中将は宮崎町に集結した西郷軍攻撃の軍営を、六日町枡屋岩切直七とは面識の間柄であることが、この歎願に大いに役割をはたしたのではないかと思うのである。

南水流用水路開渠(6)
 発起人は、上京はしたものの万策尽き、県吏藁谷氏は八人を招いて「今度のみなの嘆願上京には県令も熱心に面倒を見られたが、ついに政府を動かすことができなかった。私にも帰県して工事請負の整理にあたるようにと命じられた。みなもここは思い止まり、帰県して負債整理に務めよう」と懐中から県令と藁谷氏の心遣いの二包の金子を与え懇懇と帰国を諭された。
 八人は心を決し兼ねたが、県令や藁谷氏、係官のお世話を謝し帰国の途についた。在京実に五十余日、土工や工場、兵器局の人夫になってわずかに飢えをしのぎ嘆願に明け暮れたが、明治十六年十二月の年の瀬に上州おろしを傷心の身にさらされながら東京を出発した。東海道を伊勢から京都へ、大阪を経て神戸へ着いたのは年も改まった十七年一月十三日、帆船清久丸に乗船同月二十五日赤江港に上陸。
 志成らず帰郷した八人は密かに近所や親戚の倉庫に身を潜め、藁谷氏の処置を待ちわびた。二月二十六日に鹿児島県令から「政府より貸下げ一万円の受取方と九千円の元利償還に発起人二人の出県を」との朗報を得たので、宮永と井上両氏は藁谷氏と同道し鹿児島へ行き、一万円を受け取り九千円を納め、利息二千八十円は三ヶ年賦三歩の利子を毎年十一月までに納める約束であった。藁谷氏は各地の債主に、水路の水がかりから生ずる増米で年賦償還を取り計らうように、百方取りなして承諾を得、ことはようやく一局面を結ぶことができた。その後一同は専ら工事の継続に集中し、昼夜督励して遂に工事のおおよそを終え、積年の志はここに一応の集結をみた。
 時に明治十七年八月。しかし、まだ完成の域ではなく、なお洪水の災害に会い十八年と二十二年に新たに政府貸下金を受け、二十二年に真の完成をみた。
 この事業の大略は、水路全長一〇一九〇米、幅三米、二・三米、随道(トンネル)六ヶ所二四四六米、灌漑区域三〇〇町歩、収穫米八〇〇余石(約二万俵)、工事費四万二千余円(時価約六億円)。
 明治二十五年四月、政府は発起人一同に対してその功績を録し勅定の藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を賜い、戸長岩切直七氏に知事木杯一組を授けた。(完)

町広報紙連載 柄本 章氏「国富の歴史」より


国富町教育委員会による本庄南用水路の説明掲示板 (写真)


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