beautiful name
くにとみ
地名の由来

国富の地名
 古い時代のこの地を国富の本庄「神陵京(かむはかのみやこ)」「神原邑(かむはらむら)」、「高日邑(たかひのむら)」ともいった。
 神陵京とは、本庄台地一帯の皇室ゆかりの人々の古墳群をさして、この地名がついたのだろう。事実ここは、古墳集団地で日向古墳群の中心の一角をなしている。
 神原邑とは、景行(けいぎょう)天皇の皇子・豊国別命(とよくにわけのみこと)の子、久迩止美比古命(くにとみひこのみこと)(別名を神原彦命(かむはらひこのみこと))と申され、本庄を時の都として諸県地方を治められたことから「国富」または「神原」の地名が生まれたといい、今でも稲荷神社あたりを神原というのもこの事に始る。
 古代の諸県は、西はえびの地方、南は日南、串間地方を含めた広大な領域で、その東北の一角、統治の中心の本庄は、古墳や古伝説の高まりが、古代日向の先進地を位置づけた。
 国富という美称に負うた地名が、平安期に此の広い諸県庄という宇佐宮領の要の地として、「国富庄」と称された一時期を創りだしたとも言える。
 本庄八幡宮が宇佐宮を勧請(かんじょう)した天長八年(831年)には、すでにこの地を国富庄と呼び、神宮勧請と同時に、宇佐宮の「袖巻の峯」の地名も八幡台地の呼び名となっている。それとは逆に「藤岡山陵」(町運動公園西)下にある天真名井という井戸の名前が、日向から丹波(京都)の真名井へ移り、さらに伊勢外宮に移り、外宮後方一帯の山を「藤岡山」と呼んでいる。

郷土の地名(2)
 古代、郡や郷に初めて地名が必要になったのは、「大化改新(645年)」で、諸国の郡郷の名は「好きな字をつけよ、山川原野の地形や古老の相伝える土地の由来や史績を載せて、宣しく言上すべし」という勅(みことのり)(天皇のことば)があったことによる。
 地名には、新しく生まれる地名もあれば消え去る地名もあって、昔からの地名が消えていくのは惜しい。
 本庄天領時代に繁栄した「市」の名残りの「六日町」「十日町」や、当時船着場で賑(にぎ)わった勘定場を今も「勘場」と呼んでいる。
 式部伝説で、式部の通過地と伝えられる今平の「籠下り坂」に松ヶ迫の「取添(とりぞえ)坂」、神社や寺の在所を地名にした「諏訪」「八幡」「稲荷」「法華嶽」のほか十六か所がある。
 太田原、竹田、向高の「政所(まんどころ)」、秀吉の島津攻めの田尻の「惣陣(ずじん)」、南北朝時代に足利尊氏に仕え、戦功あって都於郡三百町を恩賞として与えられ日向へ下向した、伊東の家臣圀で国富方面に居住いた、武士達の姓が地名となったものに「太田原」「仮屋原」「須志田」「籾木」「馬登」「多羅原」「源王」「大坪」「永山」「大脇」がある。「嵐田」は、源平時代の地頭・嵐田太郎の姓といわれる。
 町内に、高田原、六野原野のように「原」の付く字=六十七、「田」の付く字=八十九、「迫」=四十四、下=三十三などがあって、国富町の地勢の豊かさを物語っている。

郷土の地名(3)
 町内に「馬場」の地名が、八代、北俣、木脇、仲町、稲荷、上馬場に残っている。
 昔、男子は武術の鍛錬や生活上からも乗馬は必要で、その調練場が「馬場」である。今はどこも地区の中心地になって市街化しているが、昔は馬が駈けるに格好な通りで、人家もまばらであった。
 当時、村の鎮守の祭礼には、乗馬で駈けながら三本の鏑矢(かぶらや)で三つの的を射る「流鏑馬(やぶさめ)」の神事が賑い、村の若者達が雄々しく乗馬と矢の技を競った晴れの場所でもあった。
 また、楽しみの少ない昔は、地区を代表した若手騎手によって、春秋の草競馬場にもなって賑ったということである。
 昔、その地にあった「寺名」がそのまま地名に残っているものに、東長寺、和田寺、地蔵寺、義門寺、宗仙寺、東福寺、浄智院、常徳寺、寺中、法華嶽、来宝院、高寺。「歴史的由緒」から、政所(まんどころ)、絹分、旭、高尾、惣陣(ずじん)、陣の下、三蔵松、車田、三ヶ名、助五郎等々。「荘薗」の名残か、寺社の供奉田(ぐぶでん)と思われる地名に、祝子薗(ほうりぞん)、三ヶ薗、御才薗、堂薗、東、北薗、脇薗、宮薗、上薗、尾薗。「数量」で呼ばれているものに、八丁坂、八丁堀、八丁畑、七反田等々。「城跡」に関わるものに、鶴ヶ城、城の下、城の元、城の元、城田、城平、東長原、古城、麓等がある。
 その他、地形、其処(そこから)からの方角、前後、上下、川の流れの変遷から現況には合わなくなった地名もみられて、在りし昔を物語っている。

地名の由来
 木脇という地名は、鎌倉時代にそのあたりを領地とした伊東祐頼が、若いころ遠江の国(今の静岡県)木脇の領主となったときに木脇又八郎と名乗ったことによるものといわれる。というのは、この時代よく領主は地名を名乗ったり、また、自分の姓を地名にしたりしていたからだ。
 例えば、高岡はその昔「久津良(くづら)」と呼んでいたが、これは平安末期、高岡地方の荘園の司「久津良太郎国光」からその地名がついたと伝えられる。
 木脇は、古い時代から養蚕の盛んな土地で、絹分(きぬわけ)とか絹脇(きぬわき)と呼ばれていたこともあるが、これも地名とかかわりあいがあるのかもしれない。  伊東祐頼は工藤祐経の孫で、源頼朝に仕え平家討伐に大きく貢献した。その恩賞に日向の県庄(あがたのしょう)(延岡方面)田島庄(佐土原方面)諸県庄(もろかたしょう)(国富方面)を領地とした。諸県庄を領有したのは祐頼が初めてで、その後「絹分」「木脇」に改められ、一族も木脇氏と名乗った。
 祐頼は、鎌倉三代・実朝がおいの公暁に討たれ、源氏正統が絶えたあとに北条側と将軍側が争ったときにも、その忠節ぶりは鎌倉武士の鏡と讃えられた。
 また、文永、弘安の蒙古軍襲来のときには、伊東軍を率いて博多で合戦し、大きな手柄をたてた。その後、深年村に兄・祐光の遺骨を持ち帰り「祐光寺」を建てた。この寺から、「寺中」の地名が起こったものだろうと思われる。

町広報紙連載 柄本 章氏「国富の歴史」より


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