伝説の古代史へ今・・・ 第五章 南郷村こぼれ話 伝説・ロマンが今、蘇る
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第二話 西南戦争と旧南郷村

〔まえがき〕
 明治10年(1877)5月末のいわゆる人吉攻防戦で敗れた薩軍の別働隊である池上隊が、人吉〜米良〜渡川へと、山田第2旅団という政府軍に追われて逃れ、さらに鬼神野〜神門に来て、小丸川を挟んで戦ったという記録と、同年8月24日から25日にかけて、延岡から高千穂を経て敗走して来て、神門の又江の原から鬼神野方面での戦いの、都合ニ度にわたっての記録が残されている。

〔旧南郷村渡川での戦い〕
 5月30日から6月1日にかけ、人吉より椎葉村の大藪を経て上渡川に逃れてきた池上隊と、それを追う政府軍との両軍とも激しく対峙して陣地を築き銃撃戦が展開された。この戦いの折の弾丸が、近年まで松の大木の幹深く撃ち込まれて残っていたという。渡川の住民も何人か戦死しているが、薩軍に志願したのか、徴募されたのかは不明である。

 この戦いに敗れた薩軍は上渡川より峠を越して神門に逃れてきて、神門の観音寺を本陣として陣容の立て直しを図った。
一方政府軍は、両軍の負傷者手当のため、落ヶ谷の川原幸平宅を包帯所と定め、神門薩軍総攻撃に備え援軍も着々と充実させていた。
この時神門薩軍から出された密偵が2人が渡川の状況の偵察中、政府軍に見つかり1人は銃殺、1人は捕らえられて処刑されている。

 人吉で敗戦になる前の日、西郷隆盛より手紙を預かった西郷隆盛によく似た小倉処平は、当時鬼神野の戸長・若杉信任にそれを渡し2泊している。
 ところが、政府軍が大分に上陸するとの情報が入り、小倉処平は命を受けわずかな飫肥隊を引率して大分方面に向かった。
 残った薩軍は神門の寺や近くの神社を本陣として渡川の政府軍の攻撃に備えた。


〔小丸川を挟んでの激戦〕
 6月も半ばになり陣容を整えた政府軍は、渡川より茶屋の峠を経て一門の大砲を有する砲兵隊は、現在の恋人の丘付近に陣をかまえ、歩兵隊は小丸川を渡ろうとしたが増水のため渡ることができず、下仮屋方面に散開し攻撃の準備をした。夜明けと共に1発の大砲の合図で歩兵の射撃が始まった。弾丸の少ない薩軍兵士の中には、上司の命もきかずに斬り込みも考えたが、増水のため思うようにならず、政府軍により狙い撃ちにあい、岸辺ではほとんど戦死して川に流されたという。

 村人たちは雷のような大砲の音に驚いて、裏山などに逃げ隠れし、銃声が聞こえなくなるまで家に帰らなかったという。この戦いを地名からマタケン瀬の激戦とも呼んでいる。
 薩軍は兵力と弾丸不足のため山陰方面へ退却、途中、坪谷や今の日向市富高方面で激戦を重ねながら、延岡に駐屯していた本隊に8月7日に合流している。

 延岡方面に集結していた薩軍は8月16日、和田越の合戦に敗れた後、西郷隆盛の解散命令によって、残った者は西郷を守って可愛岳を突破し、高千穂方面へ逃れ、再度南郷村の土を踏むのである。



第一話 西南の役へ

第三話 南郷村と西郷隆盛へ

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