伝説の古代史へ今・・・ 第五章 南郷村こぼれ話 伝説・ロマンが今、蘇る
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第四話 こぼればなし(其の一)

〔旧南郷村上渡川の戦い〕
 この戦いで渡川の住民4名も戦死しているが、自ら進んで志願したものか記録にない。
 戦死者4名のうち山本甚五郎は政府軍からも「渡川の人は降参すれば命だけは助けてやる」、味方の渡川の人からも、「陣地に退け、そして早く逃げよ」と助言されたが、山本はどこまでも戦うと言って一人で突入し、政府軍の一斉射撃を受け戦死した。

 やがて政府軍は薩軍に突入、薩軍を撃退させ、戦死者数十名あり、その内渡川の農民兵は鉈や曲がり鎌を持っていて、まるで山の下刈りに行くような姿であったそうである。(渡川百年史と山陰風土記より)


神門の薩軍行動と又江の出来事
 渡川での戦いに敗れた薩軍は神門の神社や観音時を本陣として、民家の鉄類集をめ観音時の大きな釣り鐘を当時の和尚に許しを得て銃弾を製造、渡川政府軍に対する逆襲の計画をしていた。
 此の頃、薩軍の敗残兵の一隊が上椎葉から又江を通る時の話しが残されている。

 薩軍の一隊が疲れきって又江神社に休んでいたそうである。丁度田植え最中で昼飯のご馳走作りであった、此の休んでいる薩軍を見て、ある婦人が飯を食わせようではないかと申し合わせて神社に持って行った。みんなで喜んで食べ始めた時、一人の兵隊があまりにもおいしかったので思わず「これはおいしい」と叫んだので全員が「オイシーオイシー」と異口同音に発声した。これを聞いた故江野村勝氏の叔母になる当時15歳の娘オイシと言う人が、びっくりして顔を赤らめ、自宅の家に逃げ隠れたそうである。
 此の一隊は言葉の上品さから、延岡隊か高鍋隊の薩軍であったのだろう。ご馳走になった薩軍は婦人の人達にあいさつして、元気よく神門の集結地に向かった。(又江故老の話より)


水清谷におけるこぼれ話
 神門の戦いの最中薩軍は田代の薩軍に連絡のため、田野原から水清谷へと進んだ。此の時斉藤伝氏、後藤佐守氏の祖母に当る故オクマ氏が神門で戦いが始まり、銃の音が聞こえるとの話を聞き、小さい子供が3人いるので気転をきかし古い炭焼き窯に避難する途中、連絡兵に出会った。
 その姿は乱れ髪に鉢巻顔髭は伸び放題(当時、薩軍は賊軍の汚名を着せられ地区民から怖がられていた)これを見たオクマ氏の驚きよう、又子供3人も泣き出す程だった。
 オクマ氏が引き返そうとしたら薩軍に声をかけられ「頼みがある、自分達は連絡のため田代にいくんだが、今朝から飯を食べていない。申し訳ないが飯を食わせてくれないか」と、鹿児島弁で言葉ははっきりしないが丁寧で優しかったので、オクマ氏は安心して自宅に連れ帰り飯と味噌汁を与え、更に握り飯を持たせた。

 この3人は姿に似ず涙を流して喜び、厚くお礼を言って立ち去った。
 夕方、主人和七氏が帰宅し、今日の出来事を話したら「さすがは薩摩隼人」その態度に感心し同情したとの話しである。


其の2
 神門の戦いで兵力と弾丸不足のため薩軍は山陰へと退却したが、連絡不十分のため数十名の一隊が水清谷に迷い込み、かこい地区を通過した。此の時土地に詳しい牛松氏が案内役をかって出て大平山から山陰へと案内した。
 その後、牛松氏は薩軍にそのまま賦役となったのか、兵士になったのか行方不明。翌年6月頃衰弱した体で帰宅したが、1年間の行動については一切無口で白状しなかったそうである。(水清谷古老の話)


政府軍に対する鬼神野の防備
 またけんせの戦いの後山田旅団別働隊一小隊を神門に残し主力軍は富高に出撃した。
 その頃夜毎に野菜や鶏を盗まれるという連絡があり、駐屯兵は早速その地区を捜査中小さい小屋の中から怪しき者がいきなり斬りかかって来た。兵は有無を言わせず捕え、調査の結果、薩軍逃げ遅れの敗残兵とわかり、本村下の観音滝付近(現在杉山)で打首にした。その大きな穴があったが国道拡張のため現在埋もれている。そんな事件で神門本村の政府軍警備は一層厳重であった。

 鬼神野戸長であった若杉信仁は薩軍幹部荒巻重三郎、小林普八郎の2人を匿っている豪農黒田亀四郎を説得、鬼神野若者の頭取にお願いし若者を引率、伊久良が原用水路の修理と称して修理と貯水池を設置。茅切道の修理として称して尾迎の前坂に台場(ざんごう)を堀り、田出原通称でじん野に台場(度川に通ずる近道)通称まんじゅおばねに巻草切りの休み場と称して水呑場付近に台場長さ50mの台場を構築、いつでも政府軍の攻撃に防戦するよう準備を整えた。
 此の作業は隆盛の威徳、戸長や黒田頭取の豪胆薩軍2人の指導「隆盛の為ならば」農繁期なれど黙々と従事秘密裏に行われた。(古老の話・可愛の夕風)



第三話 南郷村と西郷隆盛へ

第五話 こぼれ話(其の二へ)

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