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西岳のおいたち
 霧島山南麓に位置し、北部は高千穂峰の一部になります。
 集落は山間に散在していますが、地名の由来については、郷土史家前田厚氏によりますと、東岳に対して起きたであろうと云うことであります。
 つまり島津荘の東、鰐塚山脈を東岳・西の霧島連山を西岳と呼んだのでしょう。
 上古このあたりは襲(そ)の国と呼ばれていました。荒襲などの地名は、その名残であります。
 はるか茫洋とかすむ高千 穂山系は、四季を通じて幽霊な風情がただよい、里人たちの信仰の山でもあります。
 西岳は旧西岳村全域の地名であります。日向国諸県のうち、鹿児島藩都城島津領に属します。慶長二十年の史料が当村名の初見であります。
 元禄十一年「日向国覚書」や寛文四年「日向国諸県郡村高辻之帳」「天保郷帳」など幕府へ提出された郷帳などには当村名は見えませんが、「薩摩藩政要録」や「島津家列朝制度」など鹿児島藩の行政的な資料には当村名を見ることが出来ます。

 西岳風土記によりますと明治四年鹿児島県。都城県を経て、同六年宮崎県、同九年鹿児島県、同十六年からは宮崎県に所属、同年北諸県郡に属しています。当村の規模は東西約3里、南北約2里18町、東は中霧島村、安永村、西北は蒲牟田村、東北は山田柑、西は大隅国曾於郡田口村、南は同郡財部村と接し、宮崎県庁から里程は西へ約15里12町とあります。
 西岳村、明治二十四年、昭和三十一年の北諸県郡の自治体名、明治二十二年市町村制施行当時は庄内村となりましたが、役場が遠く不便が多く、世道の推移に伴って漸く分村の議が村民の間に起こり、有志がしばしば会合をもち、協議を重ね奔走斡旋に努め、明治二十四年に分村、西岳村が誕生しました。明治四十四年の戸数642戸、人口3,874人でした。
 昭和三十一年七月庄内町と合併荘内町となり、合併後の大字は村制時の大字を継承。
 西岳、明治二十二年〜昭和四十年の大字名、始め庄内村、明治二十四年西岳村、昭和三十一年からは荘内町の大字。昭和四十年都城市西岳町となりました。西岳町、昭和四十年〜五十一年の都城市の町名、昭和五十一年三月町名変更により、西岳町を廃して、美川町、高野町、吉之元町、御池町、夏尾町となりました。


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荘内商工会, 1999, 2001