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庄内のおいたち
 私たちの町「庄内」にはいつ頃人が住み着いたか分かりませんが、遺構、遺物等から約10,000年〜6,000年位前の縄文時代早期には既に人が生活していたと思われ、また今から2,300年位前の弥生時代には、すでに水田耕作も行われ、相当規模の集落があったことも分かっています。

 
 

 平安時代になると、島津荘(しまづのしょう)が南九州一円に広がり、中央文化が流入し神社や寺院の建立が盛んになりました。その頃島津荘の中心であった都城一帯を「庄内」と総称し私たちの町「庄内」は前川内(まえかわうち)村と呼ばれ、西岳村、中霧島村と併せて「安永(やすなが)」と言う地域名でその支配下にありました。
 鎌倉幕府が成立すると、惟宗忠久(これむねただひさ)(のち姓を島津と改め鹿児島島津家初代となる)が日向、大隅、薩摩の守護地頭としてこの地方を治める事になりました。
 やがて南北朝の争乱はこの地方にも波及し各地で戦いがありました。島津氏の支族である北郷資忠(ほんごうすけただ)(都城島津家初代−鹿児島島津家四代忠宗の六男)は北朝方に加担し戦功の恩賞として「北郷300町」を領し山田町古江に館を構えましたが二代義久(よしひさ)は都城に進出しました。
 六代敏久(としひさ)は「庄内」に安永城を築き、戦略上の拠点としました。北郷氏は逐次勢力を伸ばし八代忠相(ただすけ)の時代に都城盆地をほぼ統一しました。
 豊臣秀吉の九州征伐後、北郷氏は配置換えにより都城を追われ、替わって伊集院(いじゅういん)氏が領主になりましたが島津宗家と確執が生じ、いわゆる「庄内の乱」が勃発しました。乱後都城には北郷氏が復帰し明治維新まで領主としてこの地方を治め、北郷氏はのちに姓を島津に改めました。
 戌辰の役で幕藩体制が崩壊し、版籍奉還の成った明治二年都城には地頭として三島通庸(みしまみちつね)が着任し「庄内」に役舘を構えて専ら「庄内」と三股の開発に力を注ぎ、道路、住宅の建設、教育、産業の振興等数々の実績を挙げて「庄内」発展の基盤を作り上げました。
 明治四年都城県が設置されると、今までの「前川内」村は「安永村」と改称され、明治六年には都城県が廃され宮崎県が誕生し、一時鹿児島県に併合されましたが明治十六年、鹿児島県から別れて再び宮崎県が設置されました。
 明治二十二年、町村制が施行され「安永村」は西岳村と合併「庄内村」と改称されました。(明治二十四年西岳村は分村独立)そして日清日露の戦争を経て発展の一途をたどる「庄内村」は大正十三年「庄内町」に昇格しました。
 昭和の太平洋戦争では「庄内」からも多くの壮年男子を戦場に送り出し、戦死者550名を数え、また終戦直前の昭和二十年八月「庄内の町」も空襲により小学校をはじめ民家72戸を焼失する大被害を蒙りましたが、その後は戦後復興の苦難の道を歩み、昭和三十一年西岳村と合併し「荘内町」と称しました。さらに昭和四十年都城市と合併し今日を迎えています。


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荘内商工会, 1999, 2001