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明観寺跡



▲寺跡にある六地蔵塔

 霧島山金剛院明観寺は村上天皇の時代、応和三年(963)荒武権現社と同じ場所につくられました。
 天台宗南院の末寺であり、本尊不動明王、開山性空上人、性空が当寺を創建の時、権現社並びに不動堂を造立し、霧島山不動堂明観寺と号し、霧島山の南門と言っておりましたが、いつのころからか、修験宗徒(しゅげんしゅうと)が住職となり、殿堂荒廃し、正徳(しょうとく)の初め、官府命を受けて再興され、南泉院(なんぜんいん)の末寺となり、僧智空(ちくう)を以て住持とし、今の院号に改められましたが智空は、宝暦七年(1757)丁丑十一月晦日に火定(かじょう)に入りました。(自ら火中に身を投じて死ぬこと)81歳であったと言います。
 当寺には、性空上人の作と言われる秘佛の十一面観音像(高さ一尺八寸の木立像)や、智空建立の不動像及び阿彌陀堂等があったと言われ、また寺跡には、大乗妙典五千巻、念悌一万八千万遍踊満の供養石塔と六地蔵塔が現存しています。
 なお江戸末期、歌壇の大家で薩摩が生んだ歌人八田知紀(はったとものり)が島津家家督相続の争いに連座し幽囚の身となり、この寺に起居したことは有名であります。
(西岳風土記より)

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荘内商工会, 1999, 2001