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| 山之口町内に残る最も古い歴史的遺物は、縄文時代のものとみられる押形文土器や磨製石斧などです。そこから溯った古墳時代には、町内に20数基の古墳があったとされる記録があり、原形をとどめているものに、県指定(昭和11年)を受けている富吉地区の「山之口古墳」1号墳、2号墳があります。都城盆地の一角に位置し、霧島連山を望む山之口町は古くから人々が生活していた場所であることが想像できます。 奈良時代の文武2年(689年)が史上初めて「日向国」の名が確認できる年です。古代律令制下において、山之口は日向五郡の諸県郡に属していました。養老4年(720年)に起きた大和朝廷による隼人征討により、隼人民族の首長であった弥五郎どんを弔うための放生会(ほうじょうえ)が始まり、後にこれが「弥五郎どん祭り」となり、今に伝えられています。 中世から江戸時代までの山之口は、交通の要衝となる場所柄から、権力者の領地争いが続いた場所でした。島津荘三俣院、南朝方肝付氏、北朝方土肥氏、島津氏、伊藤氏、島津方北郷氏、伊集院氏と統治者の変遷があり、慶長4年(1599年)に庄内の乱が起こっています。伊集院方と北郷方が相対したこの戦いでは、翌5年には田原付近が戦場となりました。 慶長19年になると島津藩の直轄地となり、元和元年には、徳川幕府による「1国1城令」が発せられ、本藩より派遣された「郷士」による統治が行われています。郷士たちが住んだ麓地区は、今も武家屋敷の面影が残り、今に伝わる山之口麓文弥節人形浄瑠璃も参勤交代で江戸へ行った郷士たちが持ち帰ったものです。当時の役所(地頭仮屋)跡が現在の人形の館(山之口麓文弥節人形浄瑠璃資料館)のあるところです。 また、この時代に始まったものに前方地区の南方神社(諏訪神社)で行われている「花木あげ馬」があります。 明治4(1871)年の廃藩置県により、鹿児島県に属し、同年に都城県、同6年に宮崎県、同9年には鹿児島県とめまぐるしく変わり、西南の役を経た同16年の宮崎県再置により「宮崎県」が誕生し、同県に属しました。 明治22年の町村制施行により、山之口・花木・富吉の3ヵ村を合併して山之口村とし、昭和39年11月3日の町制施行で「山之口町」が誕生しました。さらに平成18年1月1日、都城市と高城町、山田町、高崎町の1市4町で合併し、都城市となりました。 |
| <無形民俗文化財> |
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| 【弥五郎どん(的野正八幡宮)】 弥五郎どんは宮崎と鹿児島に伝わる巨人伝説の主人公で、「山に腰掛けて海で顔を洗った」、「足跡が谷や池になった」などの逸話が残されています。その出自については諸説あり、和銅3(710)年創建と伝わる的野正八幡宮では、大和朝廷に抵抗して征討された隼人民族の首領であったと伝えられています。 弥五郎どんは3兄弟であるという説があり、山之口町・的野正八幡宮が長男、鹿児島県曽於市大隅町・岩川八幡神社が次男、日南市飫肥・田ノ上八幡神社が三男といわれています。 毎年11月3日に開催される山之口町の弥五郎どん祭りの浜殿下り(御神幸行列)では、身の丈4mの弥五郎どんが四輪台車にまたがって練り歩きます。山之口の弥五郎どんは質素な麻布の着物を着ていますが、それは「酒と賭け事が好きで身代をつぶした」ためとされています。しかし、年中薄着でも平気なことから、弥五郎どん祭りでその着物に触れると1年間病気をしないといわれています。 |
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【弥五郎どんの館】
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| 【山之口麓文弥節人形浄瑠璃】 島津家の参勤交代の折、京都・大阪ではやっていた「岡本文弥」が語る人形浄瑠璃を習い覚えた郷士たちが持ち帰り演じたとされています。その裏づけとして文政9年(1826年)に書き写したといわれる人形語り台本が残っています。以来、幾多の変遷を経て麓地区の古老たちに伝承され、昭和初期の戦争等で途絶えた時期もありましたが、昭和26年7月に復活し、その後地区民の熱心な支援もあって保存会が結成され、今日に至っています。平成7年には国の重要無形民俗文化財に指定され、貴重な文化遺産として高く評価されています。現在、このような形態で人形浄瑠璃が伝承されているのは全国で4箇所(石川県尾口村、新潟県佐渡、鹿児島県東郷町、山之口町)だけです。 |
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| 現在、年4回の定期公演(3・6・9・11月の第3日曜日)が開催され、近松門左衛門が岡元文弥のために初めて書き下ろしたといわれる『出世景清』(3月・6月公演)と、同じく近松作の『門出八嶋』(9月・11月公演)が江戸時代からの文弥節の芸態のままで上演されています。また、人形浄瑠璃の後に上演される間狂言(あいきょうげん)では一転して地元の方言によるアドリブ満載で観客の笑いを誘っています。 関連情報: 麓小学校人形浄瑠璃サークルが朝日のびのび教育賞を受賞 |
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【人形の館(山之口麓文弥節人形浄瑠璃資料館)】
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| 【花木あげ馬】 県の無形民俗文化財の指定を受けている大名行列を模した祭りです。 4年に一度開催され、稚児役に選ばれた子供の家から岩屋口まで稚児行列が行われ、岩屋口から南方神社まで大名行列が行われます。 天正19年(1951年)島津藩が朝鮮半島の出兵に際し、諏訪神社へ戦勝を祈願し、凱旋後にその礼のために大名行列を仕立てて神社に馬を献上し、神楽を奉納したのが始まりといわれています。 都城市高木町と高城町桜木、穂満坊にも伝わっています。 |
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| <史 跡> |
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| 【島津寒天工場跡】 山之口麓交差点から県道422号(有水山之口停車場)線を北上した永野地区の田んぼの中にひっそりとたたずんでいます。 幕末の頃、島津藩は財政困窮の極みに達しており、密輸を目的としてこの寒天製造工場を設けました。この地を選んだのは、寒天の製造に適した自然条件を備えていて、なおかつ幕府役人の目を避けるためにも最適だったのではないかといわれています。安政元年(1854年)から明治4年(1971年)頃まで操業していたものと思われ、製品は馬で福山港に運ばれ、大阪・長崎経由で中国(清)、ロシア等に密輸されました。監督、技術者は鹿児島から派遣され従業員数は120〜130名であったと言われています。現在では9基の窯跡を見ることができます。 |
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| 【田島かくれ念仏洞】 薩摩藩は政治的、経済的な理由から300年に亘って一向宗(浄土真宗)を弾圧し、信者は役人から隠れて念仏を唱えていました。安楽寺には、拷問に使われたという石が残っていて、念仏禁制殉教者の碑が建っています。 |
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| <観 光> |
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| 【道の駅山之口】 国道269号線沿いにあり、ドライブの途中で気軽に立ち寄れる休憩施設です。 レストラン「あじさい館」や山之口の特産品が豊富に揃った「ふるさと産品特売所」があります。 |
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【青井岳温泉】
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【青井岳キャンプ場】 鰐塚渓谷の醸し出す大自然の中でアウトドアを満喫できます。約300名収容でき、毎年県内外の利用客でにぎわっています。(7月1日〜8月31日まで) |
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■連絡先:都城市山之口総合支所産業振興課 0986-57-2177 |
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| 【あじさい公園】 標高210mの高台に21種2万8千本のあじさいが植えられており、あじさいをかたどった遊具広場、遺跡広場、あじさいハウスがあります。また、高台の頂上には高さ15mの展望台があり、霧島連山を眼前に霧島盆地を一望できます。 6月にはかづらの会主催の『手づくり村in山之口』、7月には商工会青年部主催の『あじさいビアガーデン』が開催されます。 |
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| 【桝安森林公園】 都城盆地が一望できる景勝地で町内外の人々の憩いの場として広く利用されています。 |
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