興玉神社

内神殿(厨子)が昭和58年6月、国の重要文化財に指定された。これは、応永6年(1399年)の製作で現在南九州最古の建造物とされている。

興玉神社内神殿

昭和58年6月2日 国指定重要文化財
所在地 安久町 正応寺
所有者 興玉神社

内神殿は、現在地より1キロメートル東方にあった正応寺薬師堂の厨子(ずし)と伝えられ、明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のとき、住民の機転で神社の内神殿として転用保存されてきた。
内神殿は、創建時の棟 木(歴史資料館展示)が残っており、棟木には、

奉造立 薬師如来御圖師壹宇 應永六年 己 十月七日
                   卯
大檀那 豊前守源為和
         西方殿
                大工藤原国家謹作
大勧進 遍照金剛増海

と墨書されており、宮崎県最古の建造物である。
その様式は、禅宗様(唐様)といい、禅宗とともに寺院建築の新様式として、中国大陸から鎌倉時代に伝来し、日本全土に広まっている。
同社は、明治以前は「久玉(くだま)大明神」と称していたが、明治初年に、祭神を猿田彦命ほか二柱とし、旧「外山権現社」地に移し、興玉神社と改めた。

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経筒およびその容器

昭和49年5月1日 市指定文化財
所在地 梅北町
所有地 山田家

経筒は、平安時代のものとされ、銅製の9層塔形のつまみをもつ笠蓋に、円筒形平底の筒身からなっている。
経筒を納めて保護する容器は、軽石製で、高さ60センチメートル、径34センチメートルの円筒形で、中央部に経筒を入れるための径13センチメートル、深さ40センチメートルの穴があり、その底部に直径5センチメートルの水抜き穴を穿っている。

経筒の由来は、先祖の供養と一家の幸せなどを願って経文を書き、筒(経筒)におさめ、塚(経塚)に埋める習わしが平安時代中期頃から始まっている。
この経筒は、昭和34年(1959年)、梅北町益貫の畑から出土したものである。

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王面(一対)

昭和49年5月1日 市指定文化財
所在地 歴史資料館
所有者 興玉神社

王面は、阿吽(あうん)一対の神面で、木地は楠材で目・鼻に穴がなく、裏面に次の墨書銘がある。

「王面 若宮 大明神御宝前 本願主 源慶綱 作者 清原維家 天文十年五月二十六日」

銘文により、この王面は足利幕府に反逆し、のち櫛間(串間市)で殺された足利義昭・僧源澄の百年忌に、源澄の一族と伝えられる鬼束慶綱が二人を祭る「若宮大明神」へ奉納したもので、これは明治初年になって興玉神社へ合祀されたという。

なお、都城市内の神社には、約40余りの奉納面が残されている。
いずれも素朴な作りで眼孔がなく、通常の面ではない。
そのほとんどが阿吽一対面であり、魔除け・幸福・満願などの祈願用として奉納した特殊な面である。