旧 中郷村

中郷地区は都城市梅北町、安久町、豊満町です。
旧中郷村は昭和42年、都城市と合併しました。

「都城市史 別編 民俗・文化財」(平成8年、都城市発行)より

梅北町

安久町

豊満町

早馬神社

創立の由来は不詳。
往古より早馬天神と称し、早馬大神(馬頭観音)を祀り、牛馬の神として農民より厚く崇敬されてきた。

「宮崎県史跡調査報告」によれば、延徳三年(1491)十一月「早馬天神御正体垂逑」とあり、また大永八年(1528)二月「早馬天神尊像奉造立」とあり、更に永正十六年(1519)九月、天神宮社造の記事が見えることから、延徳年間に勧請されていたとも考えられる。

明治二年早馬神社と改称した。

池田貞記の碑

所在地 梅北町払川

都城島津家の医師池田貞記(1733~1802年)は、早くから都城茶の振興につとめた。
宝暦の始め、宇治に行き栽培法、製茶法を学び、さらに創意を加えて甘露・紅梅・白梅等の都城銘茶をつくり出した。

宝暦七年(1757年)には、桃園天皇に献上して賞詞などを受けた。そのとき下賜された茶碗・土器は、歴史資料館に展示されている。

天保九年(1838年)幕府巡見使一行が都城通過のとき「江戸で都城茶というのが名物であるが知っているか………茶の値段は如何ほどか………」といった質問があったことが記録にある。

都城茶中興の祖ともいえる池田貞記は、享和二年(1802年)四月七日69歳で没し、墓は、都城の量海院墓地(東町都城税務署の地)にあったが、墓地整理に際し現在地(梅北町)に移されている。

近年、製茶関係者によって「都城茶の恩人」として報徳碑が神柱神社境内に建てられた。

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高寿覚供養塔

所在地 豊満町池平池

深見一覧は、慶長七年(1602年)都城安久正応寺門前の鎌田新右衛門の次男として生まれ、少年期に中国人の医師高寿覚の養子となった。

まもなく中国へ渡り、見聞を広めて十数年のちに帰国、藩主島津氏の医者・唐通事(とうつうじ)(通訳)として仕えていたが、寛永十九年(1644年)に長崎奉行所の唐通事となった。

長崎での一覧は、中国の高僧隠元(いんげん)をはじめ多くの中国僧の招へいに尽力した。
また、長崎市内の中島川に石橋を架け、そのうちの一つは一覧橋と名付けられ有名である。

一覧の子玄岱(げんたい)は、幕府の学者として名声があり、朝鮮国王からの通信使一行の接待などに活躍した。また、詩や書にも秀で、浅草寺(東京浅草)には「施無為」の大額が現存している。

高寿覚供養塔は、深見一覧が中国より帰国した翌年の寛永七年(1630年)に養父母の供養のために建立したものである。

西生寺跡

所在地 梅北町

 西生寺は、一説には平重盛が霧島山の東佐野(高原町狭野)に建立したといわれている。その後、尋誉上人(じんよしょうにん)のとき、夢で「三日以内に山に火が起こり寺院も焼けるであろうから、三里以外の地に退け」とのお告げを受け、上人は本尊と鎮守山王社を奉じて梅北のこの地に寺を再建した。

時は仁安二年(1167年)と伝えられる。

本尊の阿弥陀如来(あみだにょらい)像は信州善光寺にあったものといわれ、永仁二年(1295年)の勅額(ちょくがく)を掲げた堂宇は荘厳華麗であったという。

いつの頃か、裏山が崩れ建物や宝物はことごとく埋没したといわれ、その後は、北方に再建され、藩主・領主が厚く信仰したが、明治初年の廃仏毀釈によって廃寺となった。

寺は初め天台宗であったが、後に真言宗に改められている。

寺跡には、当時の優れた数体の石仏をはじめ、多くの石塔類が集められ、保存されている。

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黒尾神社

在地 梅北町

現在の社地は旧神柱宮の跡である。明治六年(1873年)神柱宮が小松原町に移されたとき、ここから1キロメートル南の台地から黒尾神社をうつした。

はじめは愛宕社といい、永和三年(1377年)都之城が敵の大軍に囲まれ危なかったとき、志布志の大隅国守護島津氏久が助けにきて、この社に戦勝を祈願して勝利したので、立派な社を寄進し、黒尾権現と改め、本地仏として勝軍地蔵・愛染明王をまつった。

明治時代になって、祭神を「いざなみの命」ほかとして黒尾神社と改めた。

安久節

伝承地 安久町

市内安久町に歌い継がれる三ん下がり調の三味線唄。
由来は、慶長14年(1600年)3月、島津氏の琉球出兵に加わった安久郷士たちが士気高揚のため歌いつづけたものと伝えられ、都城を代表する民謡で、鹿児島おはら節の元唄ともいわれている。

歌詞は、「安久武士(やっさぶし)なら しる(尻) たこ(高く) つぶれ 前は むた田で ふこ(深く) ござる…」などいろいろ歌われている。

その曲調は洗練され歯切れよく、広く市民に親しまれている。
また、南九州各地に分布する「ヤッサ節・ヤッサイ節・おはら節」も同系で、地方により田の草取り唄や門出唄とされ、都城地方では酒宴の際のお開き唄とされている。

正調安久節のほか、サンバアレンジバージョン等の派生品が作られ、年に一度の盆地まつりでも中央通り(国道10号線)にて一斉に踊られる、地元を代表する民謡でもある。

関連リンク:盆地まつり公式サイト

梅北城跡

豊丸川に沿う丘陵の上にあって、飛永城、中城、上村城、新城の4丸からなる。
平秀基によって築かれたといわれ、度々の合戦に城主はかわった。

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昭和49年5月1日 市指定文化財
所在地 梅北町
梅北城跡図 千田壽博氏作成

梅北城は、都城盆地を囲む山地がわずかにとぎれ、南の志布志方面に通ずる開口部に位置し、都城攻防の要衝であった。

平安時代の万寿3年(1026年)、島津の御荘(みしょう)を開いた太宰大監(だざいだいげん)平季基の築城といわれているが確証はない。

城は梅北川にそう丘陵地にあって、四つの曲輪(くるわ)からなる連郭式山城である。 現在は、城の西南部が削り取られ中央部を残すのみであるが、その北側と東側には盛士による高土手が見られ、空堀もほぼ原形を止めている。

南北朝時代には、武家方の畠山直顕が居城したともいわれるが、その後は近隣諸氏の争奪の的となり、島津・新納・北郷・島津豊州(ほうしゅう)の各氏が入れかわり立ちかわり領主となった。
伊集院氏をへて最後は北郷氏の領するところとなったが、元和元年(1615年)の一国一城令によって都城盆地の諸城とともに廃城となった。

正応寺の大太鼓踊り

昭和50年3月20日 市指定無形文化財
伝承地 安久町正応寺

毎年、8月7日地区の正応寺跡にある宥政上人の墓と、興玉神社に奉納する踊りである。
由来は、宥政上人がそれまでの天台宗を改め真言宗とした際にはじまるという。
また古記録によれば、「7月14日に花供踊有」と見え、古い歴史を思わせる。

踊りは、青壮年が主体となり、藺笠を冠りあごを水色の布で隠し、白上衣に白股引きを着け、紫の帯を締めた鉦2人と鼓1人、同じ扮装で腰に刀を帯びる中入組10人と、背に5本の弓旗を負う太鼓組12人で構成し、「琉球節」「浜節」などの小唄をうたい、鉦・鼓・中入組を内輪に太鼓組が外輪となり、8種目の演目を踊る。
この大太鼓踊りは、七夕踊り・盆踊りである。

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正応寺の大太鼓踊の詳細

鳥集忠男・片山謙二共著「都城の民俗芸能」(都城市 昭和56年)より

■ところ
都城市安久町正應寺地区

■ときと場所
8月7日
正應寺宥政(ゆうせい)上人墓と、興正神社に奉納

■(1)慶長13年(1608)北郷周防守(すおうのかみ)常久の二男、文鐘坊宥政上人が、医王山知足院正應寺(聖應寺とも書く)の住職となり、それまでの天台宗を改め、真言宗となし、毎月3昼夜にわたり、法事が行われたとき、この大太鼓踊も創められたとの由来を伝え、また、上人の徳を慕うあまり、女人禁制の寺へ男装をなし、一夜の宿を請うた「とんどろ」が、女人とわかり、上人の法力によって、沖天高く舞い上らせられるとき、名残り惜しさに、上人に大太鼓を献じたことによる、などともいっている。

奉納の日は、古くは旧7月7日から7日間が、「正日(しょうにち)」であったと語っている。

都城地方では、7日すなわち七夕の日に、「御嶽様」(霧島山)や、正應寺に近い「金御嶽」(かねみだけ)に「こもる」死者が、娑婆(しゃば)の我が家へ帰りはじめるといい、14日朝寅の刻(午前4時頃)帰るという「七夕盆」に当っている。

宥政上人の偉大な徳を偲び、また鎮魂することにより、災いなからんことを願い、さらに一方では、上人への思慕も果たされず、昇天させられたとんどろの御霊が、田に害するサバイ(稲虫)と化すことなく、地域や人に仇するなかれと、鎮霊慰送すること、併せて祖霊を慰撫する、都城地方の古い盆踊りと考えられる。

庄内地理志巻六十二の正應寺の項に、「正月八日修正(しゅうじょう)七月十二日朝より結願(けちがん)十三日朝まで翌十四日花供踊有」とある。修正とは、古く奈良時代に始められた正月に行われる密教の加持祈祷で、天下泰平・万民安穏を願い、災害危難を避けるために行われたものである。

正應寺の伽藍(がらん)盛んなりし頃は、毎年旧7月14日一番薬師堂・二番三王堂・三番本堂の順で大太鼓踊花供養を奉納するもので、明治の初めまで続けられていたようである。

諸県(もろかた)地方における大太鼓踊の歴史は古く、天正の頃(1573-1591)も盛んであったとある。(上井覚兼日記)
その由来にいう、宥政上人によって、天台宗を改め、真言宗としたおり創始された、とあるが、実は既にその以前から伝承されていたと思われる。

それは、扮装・踊の陣型・態様・奏楽を見るとき、念仏踊の色彩が濃厚で、特に、「中入組」の構成、踊りの型など、その古さを示している。

■(2)踊り手は昔から安久・梅北・豊満など、9ヶ村の男子で身分を問わず、また二才(にせ)(青年)と限らず壮年も参加したという。

 現在は、正應寺地区の壮年が主となって構成している。

■(3)昔から踊り手の人数に制限はなく、その数によって鉦(かね)の数を塩梅(あんばい)していた。

現在は、太鼓12名・本鉦(ほんがね)1名・入鉦(いりがね)1名・鼓1名と、 中入り8名~10名からなる。

■(4)扮装はいづれも、白の上衣と白もも引き、白脚絆に白足袋わらじ履きで、上衣は広袖の短い着物である。

太鼓組は、白鉢巻を後で短く締め、水色の手甲をはめ、同じく白色の帯をなし、腹に締太鼓をかかえ、昔は山鳥の保呂(ほろ)(羽根)1本を差したという、高さ245センチの竹を横に5本並べて立て、人々の寄進になる模様布を幟とした矢旗を背負う。

矢旗の先には羽子笠と呼ぶ、黒色の丸いタンポを一様につける。

東諸県郡国富町八代の巣は神社に奉納される「バラ太鼓踊」では、前年の鉦打ち4名が、翌年は太鼓頭となり、矢旗の先を槍の穂先形にして黒布を巻く。
北諸県郡高城町有水の「鉦踊」では、矢旗の花飾りを金銀に分けて、太鼓頭の資格を示す。このように、矢旗の飾りで、太鼓の資格をあらわす場合があるが、正應寺の場合はそれを見ない。

また、矢旗の下に小さな猿の縫いぐるみを下げている、その分布は大隅からえびの市におよぶ。正應寺の場合はオゴ(生女)が、二才へ贈るものであったという。

猿は三王の使いで、神聖視された動物である。山神と祖霊が結びついた信仰のあらわれであると思われる。

矢旗の下に「しりすけ」という、兎の毛皮か白布を下げる。しりすけは山伏が身に着ける座臥具のひとつで、正しくは「ひっしき」(引敷き・曳敷き)という。
それは、修行者が獅子に乗ることをたとえたもので、真理を知らず、無知であることを消除するために着ける、とされている。

鉦組と鼓持ち、および楽器を持たない中入り組は、飾りのない藺笠(いがさ)をかぶり、水色布野の「あごかくし」で顔をつつむ。
あごかくしは、南九州各地の風流系芸能によく使われ、「お高祖頭巾」「冠目」(かんもく)などともいい、北諸県郡三股町の「馬踊」、高崎町前田地区の「地頭踊」のほか、酒席でする即興の踊りに、手拭いや布をかぶることも同じで、招霊とともに、自らが神と化した姿である。

鉦・鼓・中入り組の着衣は、太鼓と同じ白衣であるが、鉦と鼓は赤帯、中入り組は紫色帯を、身体の右前で長く垂らして結び、腰に「巾着」(きんちゃく-布、革、などで作った小物入れ)を下げ、刀を佩(お)びる。
現在は脇差に似た小刀であるが、かつては、2尺3寸(69センチ)の定寸を用いたという。

■(5)演目は

  1. 出端
  2. 打切り
  3. 打入り
  4. づえ
  5. 三つべ
  6. 本踊
  7. づえ
  8. むくろ
  9. 引庭

の順で踊る。

■(6)踊りは、幟を先頭に、鉦鼓につづいて中入り組が横並びに2名、次に3名と、順次人数により扇形になって、庭入りをなし、太鼓は、中入り組を中心にて円陣をつくる。

先ず、打切りは、鼓・本鉦・入鉦 の順で右に並び、打切り太鼓に向って、鼓・本鉦が進み、右下から目の前にすくうようにして打つ。入鉦は中入りの後に止って、太鼓とともに静止して待つ。

打切りは、始めゆっくりと強く打ち、次第に早く鳴らして踊りの合図をする。打切り太鼓の1人は、これに合わせて右手で太鼓を打つ。鉦鼓と太鼓がすむと、太鼓組は矢旗が地面に着くほどの礼をなす。「招霊」の意味であろう。

その後、中入り組を中心にし、鉦鼓が続く。中入り組は互いに手をつなぎ、足踏みを揃えて横に、「8」の字形に廻ることを繰返す。入鉦は常に中入り組の後尾から離れない。

太鼓の足取りは、「鋸歯型」を踏みながら右に廻り、小歌のとき、横「8」の字を足八歩で踏み、旋回の際跳躍をなす。

■(7)大淀川流域の踊り型の特徴は、鉦を中心とし太鼓が外輪となり、常に鉦と太鼓が「逆廻り」をするものが多く、(一部えびの市にも見る)「びな巻き」「蛇行」などの変化を見ない。

しかし、正應寺の場合は、鉦鼓・中入り組が一体となって、横「8」の字を繰返して珍しく、奏楽は鉦が主となる点、南九州各地の大太鼓踊りと同じである。
また、太鼓の「振り」即ち打ち方は、今屋大太鼓踊りにも見るように、太鼓に向って半円をかきながら、上から下に撫でるように打つものとしている。

いまひとつ、諸県地方の大太鼓踊りの中で、鼓を使うことも珍しい。それは一般に見る鼓ではなく胴の部分は孟宗竹で、鼓の原型とも考えられて興味深い。

後白河院(1127-1192)の撰になる「梁塵祕抄」(りょうじんひしょう)に、

金の御嶽にある巫女(みこ)の、打つ鼓、打ち上げ打ち下ろしおもしろや われも参らばや ていとんとうとも響き鳴れ 響き鳴れ 打つ鼓 いかに打てばか この音の絶えざるらむ

(金峰山にいる巫女が、打つ鼓よ、打ち上げ打ち下ろして面白いことだ、われらも参詣したいものだ。テイトントウ とも響き鳴れ、響き鳴れ、打つ鼓よ、どんなふうに打てば このように音が絶えないで響くのだろうか。)

踊りの由来のひとつに、宥政治上人の法力によって、沖天高く舞い上るとき、とんどろが太鼓を献じたというのは、巫女山伏が呪具とした鼓のことではなかろうか。

「テイトントウ」は鼓の擬声語であり、「とんどろ」である。
つまり、この踊りの中における鼓は、雷神・鳴神(なるかみ)信仰が、宥政上人と結びついたことを示すものとも考えられる。

かつて、とんどろは正應寺地区だけが踊るもので、他の地区は踊ることを許されなかったという。
この踊りがきわめて古く、しかも深い信仰の所産であることがわかる。

■(8)踊り唄は、

とんどろとなるかみは
ひとたびにやおつるに
いやならいやとはじめにおしゃらで
今更なにとはなるかを
さつきぐるま
さてわれは人にはなれても
すてられんとは思えども
空身の上になれば更に思いきられん願わくば

富士に積む雪は
ひと年にゃとくるに
けんじゅう織女
ひと年にゃめぐりあう

と、とんどろが、宥政上人に献じたと伝える古い型の小唄や、隆達小歌集(1593)の

花が見たくば吉野におじゃれ
今は吉野の花ざかり

吉野山道尋ねて通る
桃と桜が散りかかる

えんに腰かけ空星眺め
さまを待つよな夜の長さ

ひがん桜を折りくばらせて
人はよろこぶわしゃうれし

おごがたもとに花折り込んで
またと逢うとは花のえん

などと、低く念仏唄のように謡い

琉球におじゃるときゃ
わらじはいておじゃれ
琉球は石原小石原

と「琉球節(じきゅうぶし)」や

七島八島金のたまるは中の島

島はききんでおさおがいるよ
さげてたもれよお奉行様よ

の「島節」など、古い歌調でうたわれている。

■(9)『三国名勝図会』の正應寺の記事には、伝教大師が唐に渡り、彼地で赤栴檀(あかせんだん)の霊木で、三体の薬師如来を彫刻し、一体比叡山延暦寺へ、一体は越前国営山寺の本尊、一体がすなわち正應寺の本尊であるとし、創建は古く藤原時代と伝え、図会は二王門をはじめ本堂、客殿方丈など、広大に記されて、真言の霊場であったとあるが、今はもうそれを偲ぶよすがはないにしても、この踊りこそ、無形の大きな遺産と言える素晴らしいものであって、南九州に多い風流(ふりゅう)系の大太鼓踊りの中では珍しく、六根清浄(ろっこんしょうじょう)の祈りを感じさせる。


■参考文献

  • 御当家本支流畧系図(都城島津家所蔵) 庄内地理志
  • 三国名勝図会 中世近世歌謡集 日本古典
  • 文学大系岩波書店

■話者
吉田芳国、米丸 林

■付記 1. 永井綾氏所蔵の鉦
本鉦(直径20センチ)
入鉦(直径17センチ)
いずれも、1833年、天保四年己八月吉日とあり。
2. 矢旗は、1856年、安政三丙辰天(ひのえたつどし)七月吉祥日 上様御進納 三つの内なるものがあり。都城領主からの奉納と思われるものや、安政五戊午(つちのえうま)七月吉祥日に、小林町の上田氏が七本寄進したものの、いくつかが残されている。

鳥集忠男・片山謙二共著「都城の民俗芸能」
(都城市 昭和56年)より