梅北城跡

豊丸川に沿う丘陵の上にあって、飛永城、中城、上村城、新城の4丸からなる。
平秀基によって築かれたといわれ、度々の合戦に城主はかわった。

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昭和49年5月1日 市指定文化財
所在地 梅北町
梅北城跡図 千田壽博氏作成

梅北城は、都城盆地を囲む山地がわずかにとぎれ、南の志布志方面に通ずる開口部に位置し、都城攻防の要衝であった。

平安時代の万寿3年(1026年)、島津の御荘(みしょう)を開いた太宰大監(だざいだいげん)平季基の築城といわれているが確証はない。

城は梅北川にそう丘陵地にあって、四つの曲輪(くるわ)からなる連郭式山城である。 現在は、城の西南部が削り取られ中央部を残すのみであるが、その北側と東側には盛士による高土手が見られ、空堀もほぼ原形を止めている。

南北朝時代には、武家方の畠山直顕が居城したともいわれるが、その後は近隣諸氏の争奪の的となり、島津・新納・北郷・島津豊州(ほうしゅう)の各氏が入れかわり立ちかわり領主となった。
伊集院氏をへて最後は北郷氏の領するところとなったが、元和元年(1615年)の一国一城令によって都城盆地の諸城とともに廃城となった。