高寿覚供養塔

所在地 豊満町池平池

深見一覧は、慶長七年(1602年)都城安久正応寺門前の鎌田新右衛門の次男として生まれ、少年期に中国人の医師高寿覚の養子となった。

まもなく中国へ渡り、見聞を広めて十数年のちに帰国、藩主島津氏の医者・唐通事(とうつうじ)(通訳)として仕えていたが、寛永十九年(1644年)に長崎奉行所の唐通事となった。

長崎での一覧は、中国の高僧隠元(いんげん)をはじめ多くの中国僧の招へいに尽力した。
また、長崎市内の中島川に石橋を架け、そのうちの一つは一覧橋と名付けられ有名である。

一覧の子玄岱(げんたい)は、幕府の学者として名声があり、朝鮮国王からの通信使一行の接待などに活躍した。また、詩や書にも秀で、浅草寺(東京浅草)には「施無為」の大額が現存している。

高寿覚供養塔は、深見一覧が中国より帰国した翌年の寛永七年(1630年)に養父母の供養のために建立したものである。