医王山知足院 正応寺跡

仁安元年(1166年)の創建で本尊は薬師如来像・幾多の興廃をくりかえしながら明治元年(1868年)の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で廃寺になるまで営まれた大寺院。現在石塔と中興開山宥政(ゆうせい)上人の墓碑がのこっている。


所在地 安久町正応寺
正応寺は、仁安元年(1166年)天台宗の僧禅慶上人と弁済使であった永井氏によって建立されたといわれている。当初は、島津荘の本家近衛氏ゆかりの寺として十二の坊を従えた広大な寺院であった。その後、慶長13年(1608年)に領主北郷忠能が千石を寄進して、北郷一族の宥政上人を住持にして再興した。
廃仏毀釈によって廃寺となったが、薬師堂跡一帯の山中には、堂の土壇・礎石が完全に残り、中世の石塔類が数多く埋没散乱している。また、本堂・客殿・方丈・鐘楼などの跡地も残り、往時の壮大さがしのばれる。
住持墓石のうち宥政上人の石塔は、高さ3メートルをこす巨大五輪塔で、そのほか中世末期の優美な仏像を刻む供養塔などもある。

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尾平野洞窟

石器時代の住居跡、洞窟は溶岩からできた自然の洞窟で、縄文式土器と獣骨などが発見された。昭和32年、県文化財に指定された。


昭和32年12月15日 県指定文化財
所在地 安久町下尾平野
尾平野洞窟は 塚山地南部に位置し、安楽川上流左岸の崖状の山腹に北を向いて開口した自然の洞窟である。地質は弱溶結凝灰岩からなっている。一体は、平坦地の少ない険しい地形であるが、洞窟の中から発見された遺物は縄文時代の生活の跡を物語っている。 洞窟が発見されたのは昭和11年のことであり、同年、熊本県の考古学者である小林久雄氏らが調査を行っている。
出土遺物には縄文時代後期から晩期にかけての煮炊きに使われた土器、動物の骨を削って造られた骨針などのほか、当時の人々の食べ残しである動物骨や貝殻があり、これらの資料はこの地方の縄文人の食生活を復元する上でも貴重である。出土動物骨には、イノシシ・シカ・カモシカ・ノウサギ・ニホンザルなどがあり、イノシシの占める割合が最も多い。

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興玉神社

内神殿(厨子)が昭和58年6月、国の重要文化財に指定された。これは、応永6年(1399年)の製作で現在南九州最古の建造物とされている。

興玉神社内神殿

昭和58年6月2日 国指定重要文化財
所在地 安久町 正応寺
所有者 興玉神社

内神殿は、現在地より1キロメートル東方にあった正応寺薬師堂の厨子(ずし)と伝えられ、明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のとき、住民の機転で神社の内神殿として転用保存されてきた。
内神殿は、創建時の棟 木(歴史資料館展示)が残っており、棟木には、

奉造立 薬師如来御圖師壹宇 應永六年 己 十月七日
                   卯
大檀那 豊前守源為和
         西方殿
                大工藤原国家謹作
大勧進 遍照金剛増海

と墨書されており、宮崎県最古の建造物である。
その様式は、禅宗様(唐様)といい、禅宗とともに寺院建築の新様式として、中国大陸から鎌倉時代に伝来し、日本全土に広まっている。
同社は、明治以前は「久玉(くだま)大明神」と称していたが、明治初年に、祭神を猿田彦命ほか二柱とし、旧「外山権現社」地に移し、興玉神社と改めた。

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経筒およびその容器

昭和49年5月1日 市指定文化財
所在地 梅北町
所有地 山田家

経筒は、平安時代のものとされ、銅製の9層塔形のつまみをもつ笠蓋に、円筒形平底の筒身からなっている。
経筒を納めて保護する容器は、軽石製で、高さ60センチメートル、径34センチメートルの円筒形で、中央部に経筒を入れるための径13センチメートル、深さ40センチメートルの穴があり、その底部に直径5センチメートルの水抜き穴を穿っている。

経筒の由来は、先祖の供養と一家の幸せなどを願って経文を書き、筒(経筒)におさめ、塚(経塚)に埋める習わしが平安時代中期頃から始まっている。
この経筒は、昭和34年(1959年)、梅北町益貫の畑から出土したものである。

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王面(一対)

昭和49年5月1日 市指定文化財
所在地 歴史資料館
所有者 興玉神社

王面は、阿吽(あうん)一対の神面で、木地は楠材で目・鼻に穴がなく、裏面に次の墨書銘がある。

「王面 若宮 大明神御宝前 本願主 源慶綱 作者 清原維家 天文十年五月二十六日」

銘文により、この王面は足利幕府に反逆し、のち櫛間(串間市)で殺された足利義昭・僧源澄の百年忌に、源澄の一族と伝えられる鬼束慶綱が二人を祭る「若宮大明神」へ奉納したもので、これは明治初年になって興玉神社へ合祀されたという。

なお、都城市内の神社には、約40余りの奉納面が残されている。
いずれも素朴な作りで眼孔がなく、通常の面ではない。
そのほとんどが阿吽一対面であり、魔除け・幸福・満願などの祈願用として奉納した特殊な面である。