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とよみつ焼

機械化されたものの多いなかで今、手造りの良さが見なおされてきております。

私共“とよみつ焼”も手造りの陶器の一つ一つに心をこめて今、失われがちな心のぬくもりとやすらぎの心を皆様に、お届けできることを誇りに思っております。

皆様のお越しを心よりお待ちしております。


とよみつ陶苑

伊部 義浩
都城市豊満町2480-3
電話:0986-39-2139
E-Mail:ibe123@ruby.ocn.ne.jp

らっきょう

中郷は、国内有数のらっきょうの生産地であり、加工された霧島らっきょうは、歯切れ満点、あっさりしたさわやかな味が珍重され、まさにふるさとの味。
東京・名古屋・大阪・北海道および九州各地に出荷されています。

宮崎の豊かな自然の中で育まれた特産らっきょうを是非ご賞味ください。


霧島食品工業株式会社

〒885-0044
宮崎県都城市安久町4742番地
TEL:0986(39)0011 / FAX:0986(39)5473
e-mail: kirisima@mnet.ne.jp

旧 中郷村

中郷地区は都城市梅北町、安久町、豊満町です。
旧中郷村は昭和42年、都城市と合併しました。

「都城市史 別編 民俗・文化財」(平成8年、都城市発行)より

梅北町

安久町

豊満町

早馬神社

創立の由来は不詳。
往古より早馬天神と称し、早馬大神(馬頭観音)を祀り、牛馬の神として農民より厚く崇敬されてきた。

「宮崎県史跡調査報告」によれば、延徳三年(1491)十一月「早馬天神御正体垂逑」とあり、また大永八年(1528)二月「早馬天神尊像奉造立」とあり、更に永正十六年(1519)九月、天神宮社造の記事が見えることから、延徳年間に勧請されていたとも考えられる。

明治二年早馬神社と改称した。

池田貞記の碑

所在地 梅北町払川

都城島津家の医師池田貞記(1733~1802年)は、早くから都城茶の振興につとめた。
宝暦の始め、宇治に行き栽培法、製茶法を学び、さらに創意を加えて甘露・紅梅・白梅等の都城銘茶をつくり出した。

宝暦七年(1757年)には、桃園天皇に献上して賞詞などを受けた。そのとき下賜された茶碗・土器は、歴史資料館に展示されている。

天保九年(1838年)幕府巡見使一行が都城通過のとき「江戸で都城茶というのが名物であるが知っているか………茶の値段は如何ほどか………」といった質問があったことが記録にある。

都城茶中興の祖ともいえる池田貞記は、享和二年(1802年)四月七日69歳で没し、墓は、都城の量海院墓地(東町都城税務署の地)にあったが、墓地整理に際し現在地(梅北町)に移されている。

近年、製茶関係者によって「都城茶の恩人」として報徳碑が神柱神社境内に建てられた。

→都城市公式HP 掲載ページ

高寿覚供養塔

所在地 豊満町池平池

深見一覧は、慶長七年(1602年)都城安久正応寺門前の鎌田新右衛門の次男として生まれ、少年期に中国人の医師高寿覚の養子となった。

まもなく中国へ渡り、見聞を広めて十数年のちに帰国、藩主島津氏の医者・唐通事(とうつうじ)(通訳)として仕えていたが、寛永十九年(1644年)に長崎奉行所の唐通事となった。

長崎での一覧は、中国の高僧隠元(いんげん)をはじめ多くの中国僧の招へいに尽力した。
また、長崎市内の中島川に石橋を架け、そのうちの一つは一覧橋と名付けられ有名である。

一覧の子玄岱(げんたい)は、幕府の学者として名声があり、朝鮮国王からの通信使一行の接待などに活躍した。また、詩や書にも秀で、浅草寺(東京浅草)には「施無為」の大額が現存している。

高寿覚供養塔は、深見一覧が中国より帰国した翌年の寛永七年(1630年)に養父母の供養のために建立したものである。

西生寺跡

所在地 梅北町

 西生寺は、一説には平重盛が霧島山の東佐野(高原町狭野)に建立したといわれている。その後、尋誉上人(じんよしょうにん)のとき、夢で「三日以内に山に火が起こり寺院も焼けるであろうから、三里以外の地に退け」とのお告げを受け、上人は本尊と鎮守山王社を奉じて梅北のこの地に寺を再建した。

時は仁安二年(1167年)と伝えられる。

本尊の阿弥陀如来(あみだにょらい)像は信州善光寺にあったものといわれ、永仁二年(1295年)の勅額(ちょくがく)を掲げた堂宇は荘厳華麗であったという。

いつの頃か、裏山が崩れ建物や宝物はことごとく埋没したといわれ、その後は、北方に再建され、藩主・領主が厚く信仰したが、明治初年の廃仏毀釈によって廃寺となった。

寺は初め天台宗であったが、後に真言宗に改められている。

寺跡には、当時の優れた数体の石仏をはじめ、多くの石塔類が集められ、保存されている。

→都城市公式HP 掲載ページ

黒尾神社

在地 梅北町

現在の社地は旧神柱宮の跡である。明治六年(1873年)神柱宮が小松原町に移されたとき、ここから1キロメートル南の台地から黒尾神社をうつした。

はじめは愛宕社といい、永和三年(1377年)都之城が敵の大軍に囲まれ危なかったとき、志布志の大隅国守護島津氏久が助けにきて、この社に戦勝を祈願して勝利したので、立派な社を寄進し、黒尾権現と改め、本地仏として勝軍地蔵・愛染明王をまつった。

明治時代になって、祭神を「いざなみの命」ほかとして黒尾神社と改めた。

安久節

伝承地 安久町

市内安久町に歌い継がれる三ん下がり調の三味線唄。
由来は、慶長14年(1600年)3月、島津氏の琉球出兵に加わった安久郷士たちが士気高揚のため歌いつづけたものと伝えられ、都城を代表する民謡で、鹿児島おはら節の元唄ともいわれている。

歌詞は、「安久武士(やっさぶし)なら しる(尻) たこ(高く) つぶれ 前は むた田で ふこ(深く) ござる…」などいろいろ歌われている。

その曲調は洗練され歯切れよく、広く市民に親しまれている。
また、南九州各地に分布する「ヤッサ節・ヤッサイ節・おはら節」も同系で、地方により田の草取り唄や門出唄とされ、都城地方では酒宴の際のお開き唄とされている。

正調安久節のほか、サンバアレンジバージョン等の派生品が作られ、年に一度の盆地まつりでも中央通り(国道10号線)にて一斉に踊られる、地元を代表する民謡でもある。

関連リンク:盆地まつり公式サイト

梅北城跡

豊丸川に沿う丘陵の上にあって、飛永城、中城、上村城、新城の4丸からなる。
平秀基によって築かれたといわれ、度々の合戦に城主はかわった。

→都城市公式HP 掲載ページ


昭和49年5月1日 市指定文化財
所在地 梅北町
梅北城跡図 千田壽博氏作成

梅北城は、都城盆地を囲む山地がわずかにとぎれ、南の志布志方面に通ずる開口部に位置し、都城攻防の要衝であった。

平安時代の万寿3年(1026年)、島津の御荘(みしょう)を開いた太宰大監(だざいだいげん)平季基の築城といわれているが確証はない。

城は梅北川にそう丘陵地にあって、四つの曲輪(くるわ)からなる連郭式山城である。 現在は、城の西南部が削り取られ中央部を残すのみであるが、その北側と東側には盛士による高土手が見られ、空堀もほぼ原形を止めている。

南北朝時代には、武家方の畠山直顕が居城したともいわれるが、その後は近隣諸氏の争奪の的となり、島津・新納・北郷・島津豊州(ほうしゅう)の各氏が入れかわり立ちかわり領主となった。
伊集院氏をへて最後は北郷氏の領するところとなったが、元和元年(1615年)の一国一城令によって都城盆地の諸城とともに廃城となった。